16Dec
前回は「両極端」を思わず欲しがってしまうという点で、ギャンブルと強迫性障害との絡みを書きました。しかし「欲しがっている」=「好きなもの」とはならないところが依存症の肝です。欲しがっているのは別の視点にあります。その大きな一つが、こころの反作用によるものです。
○中途半端が許されないという呪縛
さてギャンブル依存症が、このような強迫性障害の疾患の前提があるもとに、ことギャンブル依存症の当事者が、「両極端」つまり「天井知らず迄とことん勝つか、あるいはスッカラカンになるまで負けるか」を目指しがちな点を考えてみます。この際限のなさも「早く・簡単に・確実に」がモットーの大抵の依存症対象とは異なるものなので、これは逆説的に考えると「両極端が欲しいのだろう」と考えます。
ではなぜ両極端、長か半かの明確さが欲しいのか…。それは評価価値の中で、「あいまいが許されてこなかった」ことが重なっているのではないかと思います。「あいまい」や「中間」が「ほどよさ」として捉えることが出来ず、日本語でネガティブに言えば「中途半端」でいけないことと捉えられることに繋がっていると思われます。
このような思いがないのであれば、かつて多く存在したパチプロと言われる人のように、「長期的に勝てばいい」と思って構わないはずです。しかしギャンブル依存症の人は、いまのギャンブルが始まってから終わるまででいわゆる勝負を判定しがちで、きょうやその瞬間に負けた場合は「取り返す」という発想が生まれるという、考えてみれば不思議な特徴があります。しかもギャンブルを仕掛ける側は、「その人から取り返そうとなどは思っていない」にもかかわらずです。
従ってギャンブル依存症は、多くの依存症にある辛い思いからの「尻拭い」や「払拭」とはまた異なり、勝ち負けを繰り返すことにより、視覚的に生き様や考え方を肯定し直すことが出来ることが、魅力なのではないか思います。
スッカラカンか天井知らずの大勝ち・・・。「極端でやっと俺らしい」と、妙な明確さを思いたいとなります。反対に有っちつかずこっちつかずという状況こそ、依存症が欲しがる「この状況の払拭願望」に合致するやりかたになります。
○ 最近では「推し活」と似ている
このようにギャンブル依存症は、負けも通して「自分を肯定してくれる気がする」からハマるものと考えています。そういう意味では、今も昔もある「アイドルの追っかけ」のハマりの流れと似ていると思います。
それでもアイドルの追っかけ、いわゆる「推し活」には、例えば対象者の振る舞い様によっては幻滅のリスクもあります。しかしギャンブルにはオートレースや競輪などたとえその勝ち負けに人間が深く関わっているように見えるギャンブルでも、幻滅するという感覚にはならないでしょう。
従ってギャンブルとは、「負けることを通して、私そのものが許される」ことが感じられるところが、無意識の魅力となっていると考えています。
従ってギャンブル依存症に対峙するには、その価値観や考え方を生み出してきたストーリーというのを紐解くことが、もしかしたら物質依存症より大切になってきます。体を壊すことがなく、俗にいう「底つき体験」という立ち位置が生まれないこともあります。
ちなみに行動嗜癖は、このようにその人の価値観を重ね合わせたくて行っているという視点が重要です。最近の盗癖・盗撮、また通信手段の発展に伴ってゲーム・ネット依存、直近はSNS依存や炎上衝動に発展しています。支配や巻き込み欲求、決めつけたい衝動を巧みに操っているツールと言えます。