4Jan
本日は衝動行為という概念の変遷を見てみましょう。
噴火の根元にはマグマがある
精神科や心療内科は「症状」と同様に「衝動」も扱います。症状が火山の噴火だとすると、衝動はマグマの部分にあたります。噴火つまり症状の出方はその時の事情や巡りあわせによって変わりますが、たとえ症状は異なってもマグマである「衝動」は同じところにあることが多いものです。
その代表的なのが人間関係です。確かにその人がいま面している人間関係もトリガーとして無視はできませんが、それ以上に重要なのは過去の人間関係から煽られた過程です。なぜなら「また同じことになっている」と思うと、人はアレルギー反応を起こすがごとく不安や恐怖を感じてすくんでしまいます。この不安や恐怖が「衝動」を駆り立てる源泉となります。
このような伏線に伴うのが様々な衝動行為です。衝動 ”行為”となると形があるものですので、初めて噴火という形で「症状」扱いになるのです。
鉄則だった「まず、やめる」ことからの脱却
この噴火という症状化に対して、以前はまず「徹底的に収める」ということに評価を置いていました。アルコールや薬物、ギャンブルや万引き、はたまた暴力や様々なハラスメントでも同じ目標でした。衝動行為の裏に混沌としたストレスの泉が存在することはわかっていても、「まずは、やめる」ということが目標となり、かつこれが「誉れ」であったのです。特に自助グループなどは、「やめつづけるということ」が大きなミッションとされているでしょう。
しかしこの「まず、やめる」ということが、衝動行為が多岐に渡るようになって様相が変わってきました。その分岐点となったのが、「社会恐怖」と「摂食障害」が衝動の形として含まれるようになってからでしょう。
「ほどほど」を目指すこともアリ
社会恐怖のひとつの様態であるいわゆる「ひきこもり」と、摂食障害の代表的な形である「食べ吐き」は、どちらも「まったくやらない」ことを目標にできません。よって従来の衝動行為に対する教科書的治療目標にそぐわないものとなりました。そもそも社会恐怖や摂食障害が迎えられるようになった経緯は、価値観の違いを相互尊重出来ないゆえに生じる、「見栄・意地・面子」といった人間関係です。
これは簡単にいえば、「しがらみ」への捉われです。同じ衝動の病の体をなしているのに、これら二つの疾患は「やめることを目指せない」ため、衝動の治療はこれを機に「止める」ことが必ずしも優先ではなく、「ほどほど」を目指すという流れに転換していくことになります。
改めて「こころのマグマ」を見つめる
社会恐怖や摂食障害が含まれるようになり、衝動の病に対する治療は、その本質である「こころのマグマ」に迫れるかが、以前より格段に問われるようになっています。最近流行のゲームやネットに対する治療は、逆に最初から「ほどほど」を目指す治療目標になっています。これはこれまでの衝動治療の流れを考えれば、とても画期的なことです。なぜならネットやゲームは引きこもりや食べ吐きと違い「やめることを目指せない」ものではないのに、「やめることは目指さない」からです。「ネットやゲームはやめられるものだから、やめることを目標にしましょう」とは、言わないようになっているのです。
このような「完全にやめない」というのも治療の一つの形となってきたことによって、今後はますまず衝動行為そのものに焦点をあてることは少なくなってくるでしょう。治療の焦点が、行為や物質に対してではなく、以前より短期間で、その方の心の奥底に潜む「しがらみ」を解きほぐす方向にスイッチしていくことになるでしょう。
衝動行為や物質など、こと見えるものに焦点を合わせていくのは、わかりやすいものです。しかそれが誰にとってわかりやすいかといえば、実とは治療者や家族など本人を取り巻く人々です。こかたや衝動行為そのものに不本意ながらも巻き込まれている本人にとっては、目の見えるところを焦点にされてしまうと、「そこじゃないんだよな」となるのです。
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