7Nov
前半はギャンブルの話の前に前提を示しました。この前提をもとに後半は、「ギャンブルは実は負けたくてやっている」ことに対する心理解釈を進めます。
「好きだからいいじゃないか!!」と「否認」
依存症には当事者にとっては明確な目標が実は必要になります。わかりやすい所ですが鉄則なところは、「早く」「簡単で」「確実に」本人のイメージ通りに達することが出来るのが、依存症の「魅力」です。
例えばアルコールであれば確実に簡単に早く「酔う」ことが出来ることにより、酔いから得られるメリットである「嫌なことを忘れられる」などが得られます。
もしここで酒が好きな人であれば、「その場を屈託なく楽しめるのだから、酒を使い続けて構わないではないか」という反論が出そうです。しかしそれはアルコールの先に、当事者にとって不本意となる出来事や課題を生じないという思いがある場合です。
ちなみにアルコール依存症の「否認」というのは、実は「私はアルコール依存症ではない」という否認ではありません。アルコールによって導かれた当事者の「課題」自体を見ないようにしているという否認なのです。理由は最終回で詳しく後述しますが、アルコールによって当事者に出てきた「課題」をそのまま見つめてしまっては、せっかく酒で忘れようとしていた「過去と重なってしまう」出来事になるからです。酒で忘れようとしていた思いに対して、酒で改めて湧き出てきた事象を見つめてしまっては、せっかく浴びるほど飲んだ意味がありません。従ってむしろアルコール依存症は、「否認」があるからこそ依存症なのです。否認がなかったら依存症とはいわないのです。
従ってアルコールであればこの点の否認、つまり「その後の問題を抱えるのをどれほど向き合えているか」を依存症の見極めとしています。例えばその場を楽しめても、本人に後から支障が出る、あるいは周囲からの指摘など当事者にとって不本意な思いが降りかかるのに、その行動をハンドリング出来ずにそのまま進んでいるという場合が、心理学的に依存症と捉えています。
これはまるでブレーキやハンドルが利かない車を運転しているようなもので、運転手である当事者にとっても釈然感がない中で運転していることになります。ブレーキやハンドルが利かないのですから、投げやりになりながら運転つまり飲酒を続けていることでしょう。
しかしここが依存症の人が欲しがっている心理なのです。
「託したい」「委ねたい」思い
さてブレーキの利かない、ハンドルが十分に回らない人がアクセルを踏んでいるときに生じる思いは、実はそのまま受け取ればよろしいかと考えています。つまりその先にあるのは「どうにでもなってみたい」という未知の世界を目指していることです。
そもそも依存症とは「コントロール障害」が診断の大きな条件ですが、実はこの条件こそが当事者の見える範囲での「目標」となっているのです。衝動統制障害の結果として、「どうにでもなれ」を味わってみたいという思いです。
これはいわばスリルとも言えるでしょう。従って身近では思春期から青年期に駆られる暴走行為衝動などと同様の心理と思われます。暴走行為を起こしたい気持ちの伏線には、自身で状況のハンドリングが利かない状況を意図的に作って、「どうにでもなりたい」とある意味「託す」思いを有していることが、そもそも依存症の動機として重要と考えています。
このように依存症とは、自分の力の及ばない状況をある意味「意図的」に設定して、その後の流れに「託したい」という欲求に伴う動きと捉えることが出来るでしょう。このように考えれば、あまり大事にならないことから注目の浴びないものの、昔から依存対象物として語られる「タバコ依存」の当事者心理にも適用できることでしょう。
ギャンブルは「託したい」思いが、より視覚化される
ここまで依存症の前提を示す中で、さてこと今回の依存症対象である「ギャンブル」に触れます。
ギャンブルが依存症の流れと魅力は、他の依存症同様「現状どうしようもない」と感じている当事者の思いを前提として、ことアルコールの「酔い」や薬物の「ラリる」など主観的であいまいなものではなく、金銭の視覚化を使ってよりわかりやすく、当事者の想いである「自らハンドリングしない中で流れに託したい、導かれたい」という思いを映し出せることと考えています。
これはパチプロといわれる人など「勝ち続けている人」は、ギャンブル依存症にならないことからも言えるかと思います。事項に続きます。