23Apr

今回は当院のメインパートの一つである、様々な依存症や衝動行為の立ち位置について考えてみたいと思います。
依存症が依存症として続くのはなぜか?
そもそもどういうわけで依存症という言葉になったのでしょう。依存症と言う位ですから、そもそも同じことが継続されていて、解決の方向に持ち込まないことを指していると思います。
変わらないのです。私たちはこの変わらないと言う状態を変わらないではなくて変わりたくないと言うふうに解釈します。例えば心理学者アドラーの呈した概念の一つに「目的論」があります。これを噛み砕くと、「現在見えている様子は、そもそも本意なのだろうか」とみなします。
依存症の場合、好んで酒を飲んでいるのか、薬をやっているのか、リストカットをしているのかと考えてみましょう。この時は本人が仮に「好き好んで」と主張したところで、周囲がかえって「本意ではないだろう」とはその様子から理解できやすいでしょう。本当にしたいことに対して「依存症」のループに入るのはやはり無理があります。従って私は依存症の行為は、当事者にとってまがいなりにも「最悪を回避する」動きとみなして、その前提にある想いや目的を見つめています。
当事者は本当は衝動に基づいた依存症行為は行いたくないのです。しかし思い浮かぶ中で、当事者が目先に望む三つの要素である「素早く・簡単で・確実に」その目的を達せるのは、依存対象物質や行為であるわけです。
この「素早く・簡単に・確実に」を前提にしているところから、むしろ当事者が依存症を利用する理由として苦しむ「背景」には、それこそ素早く・簡単に・確実には「変えられない」という切羽詰まった思いを決めつけているのです。
依存症は「反動の病」としてみる
今まで依存症とはどういう病と多く尋ねられましたが、「反動の病」と考えています。その理由はまず上述したように、「素早く・簡単に・確実に」を基礎としない依存症行動はあり得ないと思われます。よってこの3つを確実に満たす前提がなければなりません。そしてその苦しいこの前提の払拭を目指すのが、様々な依存行動です。
よって依存症を考えるとき、行為よりも「前提にある想い入れ」に焦点をあてることが治療上は重要です。この前提を汲み取らないままに、行為の見える部分だけを解決しようとしても続かないのです。なぜなら依存症はあくまで「反動」だからです。

依存症の「否認」を再びみつめる
ちなみにアルコール依存症には「否認」と言う概念があります。「俺はアル中じゃねぇ」というセリフです。この言葉も従来私どもは「毛嫌いして飲酒を認めない」と解釈していました。その方が誰にでも分かりやすいからでしょう。そしてその否認の言葉を使うときに、当事者への心境は「無理している」「ムキになっている」「仕方ないなぁ」「素直になれよ」みたいなものでした。
しかしこのように考える時こそ、依存症行動そのものに焦点が向いてしまっているのです。そして陰性感情が湧き上がることもありました。一方依存症を反動の証と考えると、「否認」自体が結果と捉えることができます。
つまり本当に否認したいのは、アルコールなどの衝動行為ではなく、その衝動行為をもたらす本人の背景や経験、あるいはその影響で現在まで「切羽詰まっていること」なのです。実際の治療上では様々なエピソードに伴う当事者の考えや思いの「共通項」を捉えていきますが、その結果として否認は「現在」ではなく、当事者の「昔」を否認したかった・・・などと焦点が合ってきます。
依存症は「現在完了進行形」の病です。そしてその焦点はほぼ現在から始まっているわけではなく、過去に焦点を合わせていきます。当事者の前提に目を向け、過去の捉え方を変えていく・・・。この作業により、いままでの「こうに決まっている」から「そうじゃないかもしれない」と距離を取れるようになることが、それこそムキになっている否認からの払拭に繋がります。