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こころ、こんにちは。ブログ

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怖がっている人
 

今回は適応障害の原点である「神経症」という概念について要点を述べてみます。

神経性は個体ではなく、周囲や他者との「関係性」が焦点となる疾患です。

前提 : 「学んだことは、使いたくなる」という怖さ

昔から一般的にも使われているいわゆる「ノイローゼ」という言葉は、Neuroseというドイツ語です。英語ではnerosis、日本語では神経症と言われます。今回はこの神経症については後述しますが、ここではこの神経症という言い回しすらも、あまりにも大雑把すぎてすとんと腑に落とせる用語ではないなと、我ながら困ってしまいます。

精神医療の研究には、「これ」という見えるものが多くありません。特に心因性の疾患は、背景の文化や個人事情によって受け取り方が違います。場合によっては理不尽と捉える支配が入り混じります。よって学問的な用語で追い求めようとしても限界があると思います。つまり「そのことを知っていても、現場で使えない」ものがたくさんあります。こと学問の中にあることを臨床で応用を働かせていくことが、こころの支援者には求められると感じています。そしてそれを研ぎ澄ますのは実は学問を学ぶという姿勢とはまた距離を取った角度が必要となってきます。

しかし学問とされたものにどうしても人間は魅了されます。しかし学問に凝り固まると、「学んだことは正しいもの」とみなしたくなり、その教義に自分の目の前に生じる出来事をあてはめようとするという危うさが出てしまいます。学問にコストが発生しているので、覚えたものを応用できる実地が必ずあるはずだ思いたくなるのです。よって、本来ならば適応できない事例に対しても、無理矢理習った知識を「当てはめよう」とする方向へ感情がまい進する危うさを控えています。

プロスペクト理論 (既存の学問では説明できない実態 : 行動経済学)

行動経済学の用語にプロスペクト理論というのがあります。簡単に述べれば「損失とは利得の約2.5倍も大きく感じる」という頭の中の考え方を示したものです。これは理屈ではなく、感情的な臨床実験によって出来上がった理論なので、机上でうみだされるものではなく、いわゆる「現象学」です。

これによると、つくづく本当に人間は「捨てたくない」生き物らしいです。よって学問として「時間をかけて」習いそしていまより知識を得たと感じた人は、当然学んでいない人に比べて損失に対しより敏感になってきます。

そのような習慣が日常的になってしまうと、日々臨床を行う上では重要な、「もしかしたら私が考えてきたこととは違う何かが、目の前に生じていることにはあるのではないか」という俯瞰した見方が出来なくなります。その結果実務上の危機管理がおろそかになってしまうのです。

学問とは難しいものです。やればやるほどやった感が出てくるので、「やっていないことが少なくなっていっているに違いない」と思いたくなってしまうのです。つくづく学問と実技は両輪であり、同時に覚えていかなければ、かえって出来る目を失ってしまう学習にならないかと危惧します。

「煽られる」という危機感

特にこころの治療は、身体疾患に比べてエビデンスが少なく、一方でその方がこれまで体験してきた内容の影響が大きいものです。また自殺以外は命に直結しない部分が大きいと言わざるを得ないため、より現場の私たちはその「リスク」の取り方に緩慢になってしまう傾向にさらされているとも言えます。

今回お示しした「学問の実務での応用」に対する怖さは、何も私どもこころの援助職だけに適用されるものではないでしょう。「もしかしたら私たちがいままで知っていることものとは異なることが、目の前に起こっているのではないか」というある意味俯瞰した姿勢は、情報過多で誰にでも「煽られる」という場面が多くなっている現在の世の中では、多くの場面において適用されてしかるべき基準かと思います。

神経症とは、捨てていくことが課題

今回は習慣が逆に足かせとなることについて述べました。人間は「せっかく時間や労力をかけて見聞きしたものは、目の前の出来事にあてはめられると思い込んで使いたくなる」という衝動に駆られる危険性があります。背景には、誰しも自分が学んだ時間は無駄ではなかったと思いたいからです。「こつこつ」「地道」という言葉に愛情が高く、手適用可能な程度を長年重要視してこなかった日本では、「経験は役に立つ」は、むしろ美学として丁重に扱われるでしょう。しかしこのことをとりわけ重要視していくと、「捨てること」が出来なくなります。その結果非効率な箇所にいつまでも重きを置き続けていたり、あるいは肝心なピンポイントのところが抜けてしまうことがあります。

「このようなことも、あのようなこともある」という流れは、一見博学なような気がしますが、理知的ではないと思います。このような集め方では、今度は捨てられなくなります。この捨てる勇気が出来なくなると、世間で通用しなくなります。

このことは日々の暮らしの賄いにも言えることではないでしょうか。そして冒頭に示した神経症とは、得てして「捨てることが出来ない」ことにより生じるものです。

 

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沼田真一
川崎沼田クリニック 院長
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