3Aug
今回は「我慢して生きていた」「納得しないものを飲み込んだ」経験の影響についてのべます。
いずれも巷では、あたりまえと言われていることの中にも、実は過去の個人事情がこびりついていることがあるという事例です。
「正しさ」へのこだわりは、もたらされるもの。
さて欧米の特にビジネスの世界では、「相手が何を考えているのかわからない」という括りから入りますので、事細かく伝えなければ誤解を生じる可能性があります。
一方日本に限らずアジア圏の国々は他民族国家ではありません。日本も概ね一つの民族で構成されているため、「相手の前提が異なるかもしれない」という場面に接することが欧米よりは多くはないでしょう。
また髪や肌の色もほとんど一緒なので、個人の違いやマイノリティに対する排他的意識も深くなりがちかもしれません。人は大多数の中にいることに安堵する傾向は否めないので、ある概念に大多数が存在すれば、自分があえてその大多数を無視する傾向に動くには、大きな動機が必要になります。
大多数を欲しがる理由は、自分のこころの防衛です。正しさへのこだわりが強い人に多いです。私のやっていることは正しいと思いたくなるのですが、実はこの「思いたくなる」が肝です。この理由は決して自分由来ではなく、「正しいことをしなさい」という価値観に仕向けられ、囚われていることによるものです。もちろん仕向けているのは親を初めとした上の世代の人です。上の世代の人が評価を気にするあまり、ある意味下の世代をダシにして周囲から好評価をもらおうとします。その時の価値観の大きな軸が「正しさ」になりがちなのです。
このような流れで「正しいことは、大多数が良いと考えること」というリンクが出来上がって行きます。またこの「正しさとは大多数」があれば、物事を確認すること自体が少なくなってきます。これが日本では「そのくらい言わなくてもわかるでしょ」という流れが重宝されてしまう流れにもなっているように思います。ここから、今度は話すことは価値を下げることにつながるので、今度は態度で快・不快を示す文化がやってきます。
「失礼」に対するこだわり
しかし、この正しさへのこだわりを持ちすぎる人の中には、礼儀に対するこだわりが大きくなる傾向も出がちです。それが「失礼」ということばで現れます。「あの人はわかっていない」「普通そういうものでしょ」などなど・・・。職場の女性同士、あるいはデパートの食品売場での店員と客の間など、様々なところでこの「失礼」が世間には蔓延ってきます。
ところでこの「失礼」にこだわりを持つ人は、「相手が自分を大切に扱っていない」というのが大きな観点ですから、いつも「自分がどのように扱われているべきか」というのにこだわりを持っていると言えます。なぜ自分の扱われ方にこだわるかというと、実は「自分が疑問に思ってきたことでも、これまでたくさん飲み込んできた」という過去があるからです。
つまり私は「正しさ」「大多数」のもとに、自分のやりたいこと、進みたい方向性を抑えられ、その代わりに「けなされない」ことを優先した。しかしそのような生き方には大きな我慢が繰り返されてきた。そこに私が経験したような我慢を知らず、「のびのび」「晴れ晴れ」という人が目の前に現れると、たとえ自分が相手により実体的な損失を被らない場合でも、「私と同じようなことをしていない人が、世間で許されるのは我慢ならない」という鬱憤が膨らみ、「失礼」という言葉で飛躍的な解釈をしてしまうのです。
特に上述の態度で示す文化のように「すでにそのようなことは言葉にしてはならない」という流れに既に至ってしまっていると、今度は意見の差を言葉で紡いでいくことはできないので、ますます適切に確認できることが少なくなります。
そもそも態度で示すというのは、実際には伝わらないやり方なのですから・・・。
まとめ
今回は家族などから生み出され、知らず知らずのうちに不本意感や釈然感がない経験を積み重ねてきた人が、その後の社会でどのような価値観として現れるかの一例として「失礼」へのこだわりを取り上げました。
身の回りでやたらと「失礼」を連呼する人がいれば、「あぁ、この人は人生で納得した決断ができなかったのだな」という感覚をまずよぎらせて頂ければ、目の前の人をより客観的に冷静に、あるいはどぎまぎせずに見れるようになるでしょう。
最後に
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