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こころ、こんにちはブログ

    川崎沼田クリニック

「ならぬことはならぬ?」-釈然感の生まれ方

いじめ

「へこませて動かす」は禁物

今回は人間関係の基本として、上述の言葉を出します。

これには反論があるかもしれません。例えば、親子関係では「しつけ」と称して「言いきかせる」ことが推奨されることもあります。また会社では「いいから、言われたとおりにやれ」という命令従属型の上司部下関係があります。

特に日本のタテ社会では、ともすれば「言われたとおりにやったら良かった」という体験も多いかもしれません。「ほら、俺の言った通りにやったらよかっただろ」に終わることも珍しくありません。

釈然感は、選択した体験から生まれる。

しかしこれはあくまで可視化できる範囲の結果論で、もう少々紐解きが可能です。

ここでの「相手の言った通りにしてみたらよかった」というのは、実は「言われたとおりにやってみようと自ら思ってやってみた」という行動する側の余裕が伴っているものです。つまり何も考えずに従っているのではなく、「選択」をさせてもらっているのです。「自分が考えていることもあるが、これよりも良さそうなので、相手に提案されたことをやってみよう」という流れです。このような思考過程には、「釈然感」が生じます。

この「釈然感」は大変重要な要素です。なぜなら現実には人間関係がありますから、100%自分の描いたように物事が運ぶことはありません。しかし自分の思いに他人のエッセンスが入るという過程を受け入れることによって得られる「釈然感」には、勇気や自信というオプションが付いてくるでしょう。他人の意見が入ることで、考える以上の成果を得られることもあるかもしれません。

「100%自分の理想」には天井がありません。仮に見た目には思うように進んでも、周囲に我慢や迷惑を強いることにつながり、程なく自責感につながります。よって思春期以降において、100%自分の考えから生まれたものだけで突き進むことは、巡り巡って本人も釈然感を持てなくなる事態を生み出します。

よって社会の意見は多かれ少なかれ取り入れることになるわけですが、この過程に「釈然感」がある場合には、「結果は受け止める」という覚悟を導きます。そしてこの「釈然感」は「余裕がある中」で「選択した」感覚があるときに、持ち続けることができます。

理解できない

「常識」という旗印に悩まされる

一方この反対に位置するのが、「正解」や「常識」、あるいは「当たり前」といった言葉ではないでしょうか。これらの言葉には選択のゆとりを与えず、場合によっては疑問も否定されます。実はこれらの言葉は、「強いられた人間関係」の中で作られたものです。人間関係の余裕のなさが無理矢理を生み、これらの言葉は生き残って来たのかもしれません。

実は人間関係には「へこませてやらせる」ことができる条件というのがあります。それは閉鎖的空間があり、逃れられない場合です。例えば家族内が代表的な場所であり、それぞれの地位が伴って生じる世間のパワハラなども該当するでしょう。つまり家族の中で覚えてきた「へこませてやらせるやり方」を、社会でも応用してしまったのが各種のハラスメントなのです。

「無根拠・断定系」は理解しやすいが…。

さて、このような力関係を経て、「当たり前だろ」で終わらせようとすることが、社会には沢山あるように思えます。ここで冒頭の「ならぬことはならぬ」になります。

この言葉は、数年前の大河ドラマの舞台にもなった会津藩校にある代表的な格言です。一見言葉だけ見れば素晴らしく見えますが、実社会の中で応用しようとすれば、初めから「新たに人にモノを考えさせることは許さない」にもつながりかねません。

このように一見強くわかりやすい言葉には、受け止めやすくて拡がりやすい分、往々にして拙さがあります。このような流れをわきまえずに言葉通りに受け止めされられると、人は知らず知らずのうちに余裕を失っていき、ついにはムキに生きることしかできなくなります。

この格言に限ったことではありませんが、世の中には一見は素晴らしいように見えて、実際には非常に理不尽で問答無用な言い回しがあふれている気がします。そしてこのような言葉は、得てして「無根拠・断定系」です。ふとした時に突然私たちの前に現れてくる、このような人生に落とし込めない言葉に巻き込まれないように、常に「遊び」をもったこころの運転を心がけたいものです。

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沼田真一
川崎沼田クリニック 院長
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