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「どこ見てんだよ?」の正体─日本語に潜む“疑問詞=禁止”の心理構造

  • 2025
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「疑問」のふりをした禁止

「どこ見てんだよ」「何してんの」「どうしてそんなことするの」。
このような言葉を耳にすると、私たちは自然と身構えます。「どこ?」「何?」「どうして?」という疑問詞がついているにもかかわらず、これらの言葉に答えようとすればするほど、逆に怒りを買ったり、冷たい目で見られたりする。なぜなら、これらの言葉は「疑問」を装いながらも、実際には「やるな」「見るな」「理由なんて聞いてない」という禁止や非難のニュアンスを強く含んでいるからです。

このような言語的現象は、単なる言い回しの癖ではなく、日本語という言語、そして日本社会のコミュニケーションスタイルが深く関係していると考えられます。

子どもが学ぶ「疑問=禁止」の感覚

たとえば子どもが親から、「何してんの!」と声をかけられたとき、子どもが「ブロックで遊んでるの」と正直に答えても、「今は片付けの時間でしょ!」と叱られることがあります。すると子どもは、問いかけられた「何?」に答えることよりも、「この行動はやってはいけなかったんだ」という結論を先に学びます。

つまり、「疑問」に見える言葉が、実は「禁止」や「非難」だったと経験的に刷り込まれていくのです。このような体験を積み重ねた子どもは、次第に「何してんの?」と問われるたびに、「怒られる」「責められる」という予測のもとに萎縮したり、逆に反発的な態度をとったりするようになります。

暴力 ストップ

理由を聞いているようで、聞いていない

さらに興味深いのは、「どうしてそんなことをしたの?」という問いが、しばしば**“理由の説明を求めていない”**という点です。理由を正直に説明したところで、それが「言い訳だ」と受け止められてしまう場面が多いのではないでしょうか。つまりこの問いもまた、理由を尋ねているように見せかけながら、実際には「許せない」「すべきではない」という感情の圧力として機能しています。

これは言い換えると、日本語において「疑問詞」が感情表現や価値判断の“隠れ蓑”として使われていることになります。そして、この文化の中では、「答える」ことが必ずしも「理解」や「許し」にはつながらないという矛盾が生まれてしまいます。

疑問詞が「毒」になるとき──育ちの記憶が反応を決める

子どものころから、何かあるたびに「何してるの!」「どこ見てるの!」と叱られてきた人にとって、こうした“疑問詞”は、もはや**質問ではなく“命令”あるいは“否定”**として刷り込まれてしまいます。

それがさらに強い虐待や暴言の中で繰り返された場合、「何」「どこ」「どうして」という本来思考や対話の基本であるべき言葉は、すべて「禁止」「攻撃」「支配」のサインにすり替えられ、毒のような響きを持つようになります。

こうした体験を重ねた人は、大人になって社会に出たとき、同じような問いかけ──たとえば上司や同僚からの「どうしてこうなったの?」といった発言──に対しても、**理性的な分析や説明ではなく、“また否定される”“何を言っても許されない”**という反射的な感情を呼び起こしてしまいます。

これは個人の問題ではありません。むしろ日本社会全体において、「疑問詞」を“疑問”として正しく使わない文化が広く見られます。その結果、疑問の形をした命令や非難が、日常的に交わされているのです。

憂鬱 少女

疑問詞が「毒」になるとき──育ちの記憶が反応を決める

子どものころから、何かあるたびに「何してるの!」「どこ見てるの!」と叱られてきた人にとって、こうした“疑問詞”は、もはや**質問ではなく“命令”あるいは“否定”**として刷り込まれてしまいます。

それがさらに強い虐待や暴言の中で繰り返された場合、「何」「どこ」「どうして」という本来思考や対話の基本であるべき言葉は、すべて「禁止」「攻撃」「支配」のサインにすり替えられ、毒のような響きを持つようになります。

こうした体験を重ねた人は、大人になって社会に出たとき、同じような問いかけ──たとえば上司や同僚からの「どうしてこうなったの?」といった発言──に対しても、**理性的な分析や説明ではなく、“また否定される”“何を言っても許されない”**という反射的な感情を呼び起こしてしまいます。

これは個人の問題ではありません。むしろ日本社会全体において、「疑問詞」を“疑問”として正しく使わない文化が広く見られます。その結果、疑問の形をした命令や非難が、日常的に交わされているのです。

「誤用の疑問詞」は、受け流す訓練を

このような文化がある以上、私たちはある程度「防御的な聞き方」を身につける必要があります。
それは、**“疑問詞の形をしているからといって、必ずしも対話を求めているわけではない”**という見極めです。

たとえば、明らかに非難の口調で「どこ見てんの」と言われたとき、「どこを見ていたか」を答えようとする必要はありません。それは疑問ではなく、行動を否定したいだけの言葉だからです。
このとき大切なのは、自分が責められるべき存在であるかのように思い込まず、「これは質問ではない」「この人は問いの使い方を間違えている」と、言葉の背後を冷静に読み解き、受け流す力を持つことです。

疑問詞に反応できるのは、反応してもいい経験があるから

一方で、「どうして?」「何があったの?」という言葉を本当の意味で“問い”として受け取り、そこから説明や対話ができる人もいます。
その違いは、育った環境にあります。子どものころから、「問い」は相手に興味を持つ手段であり、「答えても怒られない」と学んだ人にとって、疑問詞は対話の入り口となりえます。

つまり、「疑問詞を疑問として受け取れる能力」そのものが、安心して育つ環境に支えられているのです。

最後に

川崎市のメンタルクリニック・心療内科・精神科『川崎沼田クリニック』では、さまざまな精神的お悩みをお持ちの方のカウンセリングを行っております。下記HPよりお気軽にお問い合わせください。
https://kawasaki-numata.jp

 

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沼田真一
川崎沼田クリニック 院長
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