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こころ、こんにちは。ブログ

    川崎沼田クリニック

自己肯定感が物事の習得に及ぼす影響

 
 
スマホを触るドクター
 

今回は自己肯定感の影響について、学習法に焦点をあてて述べてみます。

 自己肯定感という前提

世間には「習うより慣れろ」という言葉があります。職人さんや料理人を初めとしたモノづくりの人、あるいは私ども援助職でもよく聞く言葉かもれません。おそらく物事を新たに習得していくときの格言としては一つの羅針盤となっているのかもしれません。

しかしこの格言に従うためには、ある種の条件が前提にあることが必要と思います。それは特別な過去の前提がないことです。これは生育上のトラウマを、現在まで引きずっていないことです。これが自己肯定感の裏打ちです。

ここで自己肯定感が保持されている場合とは、「過去の今は異なる」という見境がついている心の状態を示します。一方でこの前提がない場合、つまり過去の経験との「重なり」「被り」がいつも生じてしまう人にとっては、この「習うより慣れろ」は新しい人間関係における融和とは逆の方向性を呈してしまうことがあります。

自己肯定感の低い人は「慣れる」が成功につながると感じにくい

まず自己肯定感の削られるトラウマ体験は、「待てよ」と物事をじっくり見る流れを優先できない方向に駆られます。なぜなら虐待など釈然感の持てないまま飲み込んだトラウマ体験は、親などの配する側は「成果を急ぐ」からです。従って受ける側つまり子どもは、「素早く」言うとおりに従う必要を迫られます。

つまりトラウマを引きずっている人にとっては、じっくり見て行動すれば、次第に物事を理解し、その結果評価が上がるというストーリーを信じにくくなっています。過去の影響から「早い結論」を重視するため、情報が来ることを待てず、目の前の少ない情報の中で判断する方向に駆られてしまいます。その結果本末転倒な解釈を生み出す危険性が出ます。職場で例えば「○○かと思って」という行き違いなどが挙げられるでしょう。

加えて、「習うより慣れろ」という側には、情報を与えないことでしくじりを待ち、注意して鍛えていくというのが妥当という展開を意識していることすらあります。しかし教わる側がトラウマ体験に悩んでいる場合は、このようなやりとりを繰り返しているうちに、過去の自分の体験と被って「やるせなくなる」という形になります。

このように「教えてくれない中でしくじって注意されて覚える」は、家庭内虐待やいじめなど、閉鎖的人間関係の中におけるトラウマ体験者から見ると、大変理解しにくい事情です。上の人からの指摘や注意の後に、「これからしっかりやりなさい」という信頼の意味が含まれている流れが飲めないのです。最近では「なぜ教えてくれないのだ」としてパワハラと評されることもあるかもしれません。

このように「物事を教わる」という流れでは、一つの軸で解釈するには無理があります。つまり相手の事情によるところを踏まえる必要が生じます。

コーヒーカップ 2つ

山本五十六の名言も、そのままは通用しない

もう一つ「やって見せ、言って聞かせて、させて見せ、ほめてやらねば、人は動かじ」という、旧海軍の山本五十六の言葉も例として挙げます。これも前述同様に自己肯定感が保たれている人の場合であれば通用するでしょう。。

当時は戦時期で目標が明らかで、生き方を選ぶ余地は少なかったでしょう。このような状況では、周囲は皆同じ方向を向いているし、例えば褒められたり感謝されたりする基準も同一かつ均一です。つまり現代のように生き方に対する羅針盤が多数存在し、「~であっても構わない」と自由を肯定する言葉は少なかったでしょう(もちろんそれは認められなかった時代ということに過ぎないのですが…) 。だから山本五十六の言葉が生きるのです。しかしこれは現代にはそのまま当てはめることはできないでしょう。

従って私がこの格言を改変すれば、「ほめてやらねば」を「やったらほめねば」とします。物事を「やるか」「やらないか」は、本人の過去の事情によるため、必ずしも私が示したことを「やる」ことが正しいなどとは問えないのです。

余談 : 「どこに引っ掛かりがあるか」は人により異なる

ここからは余談のような話です。

私が高校生の頃、現在TBSで「喝」で有名な野球解説者の講演で、「野球選手には桜型と梅型がある」と延べていました。桜型は、コーチが何か言うとかえってぶれる選手で、自分で新しい方法を模索する選手を指すそうです。反対に梅型は、放っておくと過去と同じ事を繰り返して脱却できないため、コーチが気づいたことを素早く教えることで、伸びたり克服したりする選手の型だそうです。これは自己肯定感の影響を示す例と思います。

つまり桜型は、自分でトライ&エラーの中でこそ釈然感や満足感が生み出されるという前提があり、一から携わらないとしっくりきません。教わった内容を組みいれて出来上がることは、達成や進歩につながらないという考え方が優位です。極端ではありますが「他の助言を認める」ことは、自己の存在を侵されるという基準すらあるかもしれません。この場合は前述の「慣れろ」の方が、本人にとってしっくりきやすい習得方法かもしれません。

かたや梅型は、一見こちらから近づいて教えないと変えようとしません。しかしこの場合は実は「ノープランで尋ねること」に怖さがあるともいえます。つまり傍から見て「放っておくと何をするかわからない」状態は、裏を返せば「自分で考えろ」と言われ続けてきた過去がある可能性があります。従って梅型の場合は、教える側が相手のやり方を承認したうえで新たな手立てを教えれば、今度は桜型と違って一から自分でやることにこだわりはないので、素直に取り入れようとするのではないでしょうか。梅型は「慣れろ」の過程は重視しないので、「教えてあげる」ことになります。

実際は、時に応じてこの桜型と梅型と組み合わせているのでしょうが、その人の抵抗するポイントを頭に据えることはあってもいいかもしれません。

これは本当に余談でした…。

 

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沼田真一
川崎沼田クリニック 院長
神奈川県川崎市川崎区砂子2-11-20 加瀬ビル133 4F