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こころ、こんにちは。ブログ

    川崎沼田クリニック

人間関係はアレルギー : 「また同じことになる」という怖さ。

 
 
 

今回はその道に携わっている方々から見れば多少反感を招くかもしれませんが、嗜癖医療の目的は何かについて考えていきたいと思います。

嗜癖医療(衝動の病)は「回復」を目指してきた。

今日まで、衝動の病(嗜癖医療)の治療のモットーは「回復」となっています。「もう一生治らない。しかし回復ならある」。これは、私が医師になる20年以上前より言われてきた治療の合言葉のようなものです。

嗜癖医療のこの考え方は、高血圧や糖尿病の治療に似ています。つまり、一部例外はあるもののこれらの慢性疾患は、一度発症すると治癒つまり元の状態に完全に戻ることはありません。しかし適切に服薬や適切な生活習慣を続けていれば、罹患していない人と同じような生活が可能な水準を指します。嗜癖治療もこのような疾患と同じ方向性を言われてきました。従って、例えばアルコールではあれば酒を一滴も飲まない、薬物やギャンブルであれば一回も手を出さない、それでも決して完治はないが、日常生活をお呼びやしていくことにはつながらない。このことが最初から目標とされます。

高血圧や糖尿病と同様、元の状態に戻ってしまうという脆弱性を有するので、最初からきっかけとなるものに近づかないように行動するというものです。確かにこの目標自体は、嗜癖医療の命題としては妥当な目安であるとは存じます。しかも我々援助する側からすれば、世間からも家族からも文句は言われない目標のため、ある意味我々の面目を保つためには使いやすい照準なのです。

しかしこれを実践するのは本人なのです。よってこの目標をそもそも受け入れて頂くには、当事者が「やってみようかな」という気持ちになってもらうような戦略が必要なのです。『北風と太陽』ではないですが、援助側の側面は未だ十分ではないのではないかなぁと感じています。

「落語は人間の業の肯定である」(立川談志・談)

話は少々変わりますが、数年前に亡くなった噺家の立川談志さんの言葉を前提として示します。

談志さんは20代の時に稼業の落語について、「落語は人間の業の肯定である」と述べています。「業」という言葉は細かく言えば様々な解釈があると思いますが、ざっくばらんに述べれば「人は痛いものは痛いし、面倒なものは面倒だし、楽して褒められたいし、自分だけは許してもらいたいし・・・」といった、人間の本性(サガ)みたいものです。噺の中で様々な演者を通じ、「それもそうだよな~」という「業」を感じてもらうところが、おかしみにつながっていっているということでしょう。

これは「物事は綺麗事では人は乗ってくれませんよ」と言い換えることも出来ると考えています。

暴力 ストップ

煽られての決断は、あとで不満を感じても我慢してしまう (モノを買う場合を例えて)

ここで、私たちが日常生活でモノを買うときの気持ちを想像して頂ければと存じます。そもそも「それを買ってみようという気持ち」にさせるために、「これ買ってください」とまともに行く売り手はどこにもいないでしょう。「買ってください」とは直接言わない代わりに、様々な手段で探りを入れながら、買ってもらえそうな気分にさせるようにもっていき、最後には買う側が自ら購入を決断したようにあたかも「思わせる」ことが、物を売る側としてのある意味正当なテクニックです。

一方で、例えば「この商品は絶対に必要」と「煽られた」場合はどうでしょう。目の前の商品が唯一無二の優秀であることを諭され、冷静に判断する時間も与えられず、まるで囃し立てられるように受け入れて買ってしまった場合です。この場合、傍から見ればあとから文句をつけることができると感じるかもしれません。しかし実際はたとえあとで購入者が煽られてしまったことに気付いても、一方では同時に「”一杯食わされた”という思いを、いつまでも引きずっていたくはない」という気持ちが先行します。その結果、たとえ心の底では釈然感がなくても、どこかで納得した「ふり」をして購入者は自分を諫める方向に気持ちを持っていくことになります。

「お前まで、酒を飲むなというのか」というオーバーラップ

しかし、いつも自分を諫めて無理矢理「仕方なかった」と納得させる術には限界があります。どこかで釈然としなかった出来事がある時に蘇り、今度は「またあの時と同じことを喰らう」という過剰な危機感として表れてきます。

従って嗜癖医療には、それこそ誰にも問題と言わせない「官軍」的な考え方ではなく、お客にモノを売ったりサービスを提供したりという、ことさら世の中で行われている商いの感覚のようなものを意識することが、ことさら援助側に必要になります。当事者の心の中に、「あの時と同じように、お前もまた同じことを言うのか」という抵抗が生じているからです。

これは嗜癖医療に限ったことではないでしょう。「そのように考えるには、それに纏わる本人の背景がある」ことを考慮することが必要となります。それが一見世間から非難されることであろうが、本人はそのように感じる伏線があるのです。この背景を無視して取り組めば、嗜癖医療はただただ人を裁くことになってしまうだけです。そして裁くことに満足するのは、裁く側つまり援助側だけなのです。

「それもそうだよな~」という思いは、むしろ携わる側が大切にしなければならない照準です。

 

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沼田真一
川崎沼田クリニック 院長
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