11May

向き合う怖さと、斜に構える安心
「壁ぎわに寝がえりうって 背中で聞いている やっぱりお前は出て行くんだな」
——これは沢田研二さんの代表曲『勝手にしやがれ』の冒頭に登場する印象的なフレーズです。
愛する人が出ていく気配を察知しながら、それを引き止めることもなく、背中で受け止めようとする。その姿には、強がりと哀しみ、そして心のどこかで「またか」という諦めがにじんでいます。
この曲の主人公は、斜に構えているようで、実は深く傷ついてきた人の心そのものです。まっすぐ向き合っても、報われず、逃げられてしまう。その怖さを知っているからこそ、冷たく見せて、自ら距離を取ってしまうのです。これは依存症の方に多く見られる「防衛」のあり方と重なります。
「まともに向き合ったのに、捨てられた」——その記憶
幼少期に、素直に感情を出したとき、それを受け止めてもらえなかった経験。期待に応えたときだけ愛されたように感じた経験。
そのような体験は、「自分の本音は受け入れてもらえない」という感覚を深く根づかせます。
結果として、人との距離が近づくほど不安になり、見捨てられる前に自分から冷たくする、あるいは相手を試すような行動に出てしまう。こうした反応は、“わがまま”ではなく、傷を回避するために身につけた戦略でもあるのです。
恋愛に投影される、過去の傷
『勝手にしやがれ』の主人公が、恋人に突き放すような態度をとるのは、「また裏切られるくらいなら、先に切ってしまおう」という防衛反応とも言えます。
「勝手にしやがれ」と言い放つその裏には、怒りと寂しさ、そして「本当は行かないでほしい」という願いが重なっています。
こうした心の再演(re-enactment)は、依存症の方の恋愛関係によく見られます。過去の親子関係で抱いた感情を、大人になってからのパートナーに無意識に投影してしまう。
「どうせまた捨てられる」という思い込みが、実際にそうなるような行動を引き寄せてしまうのです。

傷ついた経験は「わがまま」ではない
依存症のある方の行動は、一見すると「自分勝手」「情緒不安定」と見られがちですが、その奥には「こんなふうにしか表現できなかった」心の事情があります。
率直に感情を伝えることができなかった過去、愛された記憶の希薄さ、それらが現在の人間関係の中で「形を変えて再現」されているのです。
感情を抑え込みながら育った人が、恋人の前では突然ふるまいが変わる。その背景には、過去の自分を守るための「反射的な心の動き」があるのです。
「勝手にしやがれ」と呟く前に
『勝手にしやがれ』という言葉には、強がりのようで、どこか切ない響きがあります。
「どうせまた裏切られるなら、先に自分が捨ててしまえばいい」。でもその奥には、「本当は分かってほしい」「愛されたかった」という切実な願いがあります。
私たちはこの防衛を「たしなめる」のではなく、「なぜそうせざるを得なかったのか」を見つめる必要があります。
依存症とは、単なる習慣や性格の問題ではなく、「関係性における傷つき」と「それを守るための工夫」の結果です。
だからこそ、斜に構えるその態度の奥にあるものに目を向け、そっと問いかけることが、回復に繋がっていきます。