31Jul
今回は児童虐待の心理について述べ、母親と子どもを例にして述べます。特に家庭内虐待に生じる慈しみと虐めの両極端さが焦点と考えています。
極端な行動の裏には「別の人」がいる
私は児童虐待の心理性について、「よしよし、バーン」と例えています。その名の通り、「よしよし」と撫でたかと思うと、次の瞬間何かの拍子で「バーン」と叩いてしまうのです。繰り返されている虐待事例ほど、このような急激な変化が繰り返されているように見受けられます。
このように児童虐待における行動変容には、「豹変さ」があります。もしその母子のやりとりの場面をそっと脇から覗いていたとすれば、虐待に至る瞬間の急激な母親の様子の変化に衝撃を感じることでしょう。
まず前提として、このように極端に行動が変化する場合は、その場面にいる登場人物だけの関係性で把握するだけでは無理があります。つまり現在の母親と子どもという実在する2人の他に、目の前の子どもを見る母親の頭の中には別の人物が浮かび上がっています。なかでも「この子ぐらいの頃の私」像は、虐待のその瞬間には大きく描かれています。
「よしよし」場面は、私の子ども時代にしてほしいこと
さてまずはこの前提のもとに、「よしよし」の場面について述べます。
これは単純ですが、「このようにしてもらったら私が子どもだったら嬉しいだろうな。喜んで受け入れるだろうな」と想像しているときの行動です。
自分の子ども時代を想像しながら、目の前の子どもに対して「受け入れてもらえるだろう」という想いで接しています。この時は当然、母親自身が子どもの頃に「してもらって嬉しかったこと」、あるいは「自分はしてもらえなかったけれども、きっと子どもはこのようにしたら喜ぶだろう」と想像することを基準に子どもに接します。
ちなみに後者は、母親と子どもは単純に育った時代は少なくとも異なりますので、母親が未経験なことを子どもに与えようとする場面で遭遇します。よってこの場合は一歩下がって見つめていることになるため、より想像力で子どもに接していくことになります。
いずれにせよ、常に母親は子どもの気持ちに想像をたぐらせながら振る舞うことになります。
「バーン」は、目の前の子どもに対する嫉妬心
しかし特に繰り返される児童虐待の場合は、母親が子どもを「よしよし」と慈しんでいる場面から、何かの拍子に急に母親の心情が変わって虐待に至ることがよくみられます。この何かの拍子とは、「自分の子ども時代の様子と、目の前の子どもとの間に重なりを感じた瞬間」です。つまり「よしよし」と子どもを見ながら、突然「自分はこのようなことをやってもらえなかった」という心の奥底にしまわれていた感情が、自分が子どもにしている優しさや慈しみの行為により、かえって飛び出してくるのです。
よってこの瞬間は自分の子どもに対して嫉妬してしまいます。ただただ笑顔で母親の優しさを受け入れている目の前の子どもが急に気に食わなくなってきます。このような時に、理由なき「バーン」が起こってしまいます。
この虐待が始まろうとしているとき、子どもに向き合っている母親の頭の中には、もう一つの過去の場面が蘇ってきています。つまり、抱いている目の前の子どもが母親の子ども時代の私で、まさに抱いている母親の姿が「母親の母親(子どもから見れば祖母)」の姿を想像しています。
特に母親自身が虐待に苦しんできた過去がある場合、優しいふるまいの最中に突如過去の場面が思いだされ、「私はこんな優しいことはしてもらえなかった」と目の前の子どもに嫉妬して叩きたくなる衝動に駆られます。これが「よしよし」の次に来る「バーン」の流れです。
後半はこの虐待における心理機制である、「投影性同一視」の応用について述べます。
▼投影性同一視と児童虐待の関係の後編はこちら
最後に
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