25Apr
前編で述べたように、そもそも人の動きや考え方に関しては、目に見えたり感じたりする実体だけではなく、「どのような流れでこのようになっているのか」という見方が欠かせません。しかしここで妨げになるのは世間の感覚、つまり常識や良識、当たり前と言うフレーズです。
このような「錦の御旗」的な言葉は精神医療でも社会論でも出てきますが、特に「正論者」はこの言葉が好きです。「子供を虐待してはならない」「人に暴力をふるってはいけない」「他人に迷惑をかけてはならない」など個人のあるべき姿も説くものもあれば、「自殺を減らさなければならない」など社会的スローガンもあるでしょう。いずれもフレーズだけ取り上げれば、「ごもっともなこと」です。これらのフレーズを出されれば反論の余地がなくなります。
しかしこのような流れにも、立ち止まって見ることがあってもよいと思います。
「正論アディクション」というものはないだろうか
毎年11月は児童虐待防止期間 (オレンジリボン) があり、配偶者虐待防止運動の時期でもあります。私も入会している虐待に関するある学会は、コロナ以前はおそらく毎年3000人は終結する大きな集会になります。しかしだいぶ前から正論がこぞってしまっていて、私の師匠はだいぶ前にやめてしまいました。船頭多くして船山に上るではありませんが、体裁だけが良くなり本質に踏み込めない感じます。私も何度か以前発表をしましたが、やはり「錦の御旗」を外れた物言いはタブーとされていたような気がします。
しかし虐待やパワハラなど、人間関係における支配や無理強いを見つめるうえで常に立ち戻らなければならないことは、実は「暴力のどこがいけないのですか」ということがあります。
ただただ「暴力はいけない」「虐待はいけない」「迷惑をかける人は排除を考えるべき」などを訴えることは本当に「簡単」なのです。
「正論」をいう人は、実は怖がっている
正論・正義感を声高にいう人は、「正論でなければならない」というこだわりを持ち続けています。そしてこれも実は一つの「アディクション」です。いわば「正論アディクション」です。正論は少なくとも”反対は受けていない”ので、それこそ炎上も人格否定もされず、堂々と話すことができます。いわば安全パイです。
ここでこのようなときに「別の考え方もあるかもしれないのでは…」と茶々を入れるとすぐに相手はムキになるので、意外に簡単にその方の心の内がわかります。
しかしこの場合もただ揶揄や批判する方向に行くのではなく、その人が「正論」にこだわらなければならない由縁に焦点を合わせて訊いていきます。するとやがてあくまで「縛りにすぎなかった」と気付く流れにもなります。
アディクションに染まっている人は大勢いる (依存症と言わない依存)
このように考えていくと、俗に依存症と診断されている人だけが依存に陥っているわけではないことがわかります。特に世間で評価が高くなりがちな「仕事依存」などにみられますが、懸命に気張り続けていたり、批判が怖くて鎧を常に抱えている人が依存になりやすいといえるでしょう。
一方でこのようにムキにならざるを得ない人は、たとえ世間では恵まれて育ったといわれていたとしても、実は周囲の人間との関わりにおいて想定とは違う辛い体験を繰り返し味わってきた可能性が大きいのです。辛辣な体験や考え方を繰り返しているから、他の新しい体験や考え方に帰依できなくなっているのです。そのような方の中には、社会では専門家としての成功者として紹介されることもありますが、自身の生き方を肯定するためのこだわりが強くなり、他の方法と混ぜあわせるという考えに恐れを抱き、「唯一これが正しい」と提唱するしかない事態に陥っていることがあります。
たおやかな子供時代を過ごしてきた場合は、決めつけることはしないでしょう。「そういうこともあるかもしれないな」という俯瞰した目線を持っています。よって少ない情報で「○○に決まっている」と決めつけることも少なく、また相手に「そういう考えについて教えてもらえますか」と余裕をもって言えるようになります。このような心の余裕や手数の幅を拡げていくことが、「衝動」に悩む方への道標です。
この記事へのコメントはありません。