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こころ、こんにちは。ブログ

    川崎沼田クリニック

トラウマと自己肯定感のありかたについて

 
 
 

〇 前置き : 人が行う援助だから「人間味」を無視できない。

前回「トラウマと認知行動療法」について述べました。このコラムを書いた背景は「援助者側が当事者との前提の違いに気づかないことがないか」を日頃から臨床的に感じるためです。

これは治療を施行することには学問という視点の限界が無視できません。所詮はコミュニケーションですから、簡単なところでは息も間も有するある意味「芸」のようなものです。よって援助側の人間味が無視できません。むしろ実際には大きく影響しているでしょう。

もちろん認知行動療法など特定の型の治療法は、この人間味を脇に置いておいて、誰でもカリキュラムを積んでいけばこなせるようにするというものです。俗にいうエビデンスというのを目標にした場合は、型にはまっているものを必要とするでしょう。しかし一方ではこのような方の治療の推進には、援助者側の事情が働いている場合がありませんでしょうか。

一つ例に挙げるバイアスは、援助側が自分の得意分野(例・認知行動療法)を持っている場合に、その武器が少しでも使えるとわかると、「少しの効果でも」と使いたがる衝動が湧き上がってくるものです。これは経験を重ねてきたことは、たとえ通用する割合が少なくとも、施行したこと自体に対する達成感が生まれる可能性を、援助者側が想像できるからではないでしょうか。

今回はこのようなことを踏まえながら、改めてトラウマとその後の自己肯定感の影響について、前後半二回に分けて述べます。今回は前半です。

トラウマ体験と自己肯定感

トラウマとはどのようなものを指すかは、議論が尽きないかもしれません。私としては納得感・釈然感がないまま受け入れざるを得なかった出来事として、トラウマ体験を捉えています。

もちろん「あとになって、そのようにしておいてよかったでしょ?」という言い分もあるでしょう。しかしこれらは例えば受験やしつけなど、世間から見ればあとから利得を生み出すと考えられるものに対してです。

一方トラウマ体験とは「無理矢理」感が潜んでいるのです。

理解できない

「無理矢理感」は何をもたらすか

たとえ目指すものが社会的に認められがちな出来事でも、そのプロセスに無理矢理感があると、上述の納得感・釈然感を飛び越え強制や支配につながります。この「支配された感覚」が、次のステージでさらに当事者に満たされない感覚をある意味穿った形で招き入れます。納得感なく受けいれた体験は、のちに「平等性を穿った形で捉えるようになる」という形で影響を及ぼします。

そもそも個人の要求がまちまちな中で、社会における平等とは「不都合なものをみんなで分かち合う際の落としどころ」ともいえます。しかしトラウマ体験の影響により、この落としどころを見つけることに納得がいかなくなります。よって折衷案を受け入れられなくなります。

これは俗にいう「プレミア」という言葉で当てはまるかもしれません。例えばある人や組織からある出来事に対して我慢して受け入れたものについては、あとでその分返してもらうという「補償」を落としどころとすることが多いと思います。ここにトラウマ体験のようにタイムラグが発生する場合は、その平等性の担保として「利息」がついてくるかもしれません。この利息にも妥当性という「落としどころ」が本来はあるでしょう。

ここでトラウマ体験を引きずっている方に当てはめてみます。前述のようにトラウマは無理矢理という支配を飲み込んだ体験なので、「どこまで飲み込んだか」という程度が当事者には見えません。そして当然ながら、返してもらう目途も見えませんので、妥当な利息を付けられません。

そこでトラウマ体験者は「レバレッジ」が大きくなることに駆られるようになります。

トラウマ体験は、当事者本人が気付かないうちに当事者自身が「当然」と思ってしまう無碍な展開を及ぼす可能性があり、社会との間に新たな影響を及ぼすことがあります。

この一連の考え方のポイントと、当事者の心の裏側を述べます。

“レバレッジ (てこ)”により、重みが増してしまう

繰り返しになりますが、トラウマ体験者が陥りやすい心の展開として、「トラウマによる失った体験や影響を “いまの社会から一気に返してもらおう” と考える」ことがあります。しかしこのような「心の問題」は、社会との間に条件を合わせて妥当性を検討することが出来ないため、「取り返してもらう」境界をつかむことが出来ません。

このような時に過去に強制的な支配体験を受けたトラウマの当事者は、「いくらでも返してもらおう」となってしまうことがあります。取返し願望が無制限になってしまうのです。

このようにトラウマ体験の当事者は実現不可能なくらいの、大きな “レバレッジ (てこ)” をかけてしまいます。この背景には「過去にあれほどの大きな傷を負ったのだから、何倍にもまして、また永遠に取り返させてもらいたい」と考えたくなってしまいます。

しかも過去の体験は当たり前ながら戻ってきません。よって「それならば」と、今後に大きすぎるデコレーション(着飾り)する衝動に駆られます。その様子は一見、社会との「平等性」や「落としどころ」を自ら避けているようにすら見えます。「私だけは周囲と違って得てもいい。なぜならあの時周囲と違って私だけが傷ついたのだから・・・」という展開です。

これはまだトラウマ体験が癒えていない場合には、「大きな利得を得なければ、いたたまれない気持ちが続く」という強迫観念があるでしょう。決してむさぼっているつもりも、ずるやインチキをしたい気持ちではありません。しかしこのように「取り返したい」気持ちがどうしても優位になることで、傍から見れば「落としどころのない展開」に自ら誘導してしまうことにつながります。

このようにトラウマ体験者の一見自己本位な要望は、実はそのような大きく得るつもりはありません。あくまで防衛なのです。しかし社会との対峙の中で、過去まで納得できるようにストーリーを拡げてしまうのです。この「見境がつかなくなる」のがトラウマの影響ではないでしょうか。

極端な考え方や衝動行為は、伏線を言葉にしていく。

私たち援助者は、物事が滞る時は見方を変えるという原則があります。逆説的に考えるのです。そのような見方をすれば「一挙に過去まで取り返したい願望」は、トラウマの支配に苦しむ当事者にとっては「あの時の傷を思いだしてしまわないように・・・取り返す」というブレーキや守り神と考えることも出来ます。もちろんこのような論理は社会では受け入れられがたいため、さらなるトラウマ体験として受けとめてしまう可能性も十分あります。

あるいは日々の出来事に「傷ついた、傷ついた」と声高に訴えていることもあるでしょう。一方で思春期以降は、騒ぐという訴え方は新たな自責感を生み出すリスクです。よってこの矛盾による鬱憤を発散する代替法として、リストカットなどの衝動行為があります。衝動行為は自責感を一時的にでも払拭します。

そこでこのような衝動行動に対しては、その意味を言葉に落とすことによって役に立つものにすり替わります。一方で行動の意味を言語化して管理できていなければ、当事者は釈然感のなさや淋しさを新たに生みだすことにもなりかねません。そして新たな淋しさが生まれれば、さらに回避しようとした結果リストカット・ループが始まることにもなります。

このように一見訝しい考え方や行動には、当事者の敏感なこころが反映されているのです。

トラウマは「取返し」ではなく「昇華」

この取り返しという感覚は、誰かが介入しなければ天井が見つけにくいものかもしれません。一人では「ここまで」という見境がつけにくくなります。よって「あの時の傷を取り返すまでは…」とこだわり続けることに縛られ、目の前の新たなキャンパスを染めていくことを拒むようになります。これが慢性回避行為としてのひきこもりでしょう。

トラウマ体験の折り込みは、現在の社会の事象で記憶をアップデートすることになります。そこには過去の解釈が必要になります。一方アップデートは過去をなかったもの、つまりチャラにするわけではありません。決して出来事を記憶から飛ばすわけではありません。

最後に「いまとあの時は違う」という見境をつけられるようになることが、トラウマからの昇華です。この流れは一人でやろうとしなければ、道筋をつけることに特に難しいことはありません。そして流れがつかめてきた時には、今度は「あの時私は大変だったね」という言葉を、自分自身にかけられるようになっているでしょう。

このような繰り返しで、新たに自己肯定感が積み重なっていきます。

 

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沼田真一
川崎沼田クリニック 院長
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