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続・謝らない人 – 見栄と意地の由縁

  • 2022
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暴力 ストップ
 

そもそも見栄・意地には「前提」が必要

前述に「謝らない人」という項目を立てました。改めて謝罪をたじろぐ、不都合になると顎が上がってしまう人などの矛先には、実は対人関係上の「怖さ」がよぎっています。「怖さ」ですから、攻撃的に見えるような態度でも実は防御です。しかも過剰な反応です。これを日本語では、見栄や意地という言葉で表現されているのでしょう。

日本に限らず特にアジア圏の国々には、見栄や意地といったものは大きいことは想像に難くありません。むしろ日本より他のアジアの国々の方が、この意識は大きい場合もあるかもしれません。これはほぼ同じような民族で国が構成されており、お互いの価値観が似ていることから、ある意味このような見栄や意地という行動が通用してしまうという背景もあるでしょう。極端な例ですが、白人と黒人では最初から価値観の前提が違うため、見栄や意地という態度を片方が示しても、関係性が深まっていなければなかなか相手が感じ取ってもらえないでしょう。

日本人も、例えば日本人と比べ細かさが少ないと感じるスペイン人やイタリア人、あるいはブラジル人に対しては、日本人的な見栄や意地を張ることはないでしょう。

なぜならそれは単純に相手に通用しないからです。

日本人から見る見栄・意地

見栄や意地という言葉は、あくまで「謝らない人」の心に芽生えやすいものとして取り上げています。日本人も十分見栄・意地が大きい文化は持っていますが、それでも強制ではなく選挙で政治の仕組みが作られという民主主義国家であり、また過去のように明らかな身分制度などは既に存在しないので、「たとえ動いても、相手が報うことはない」あるいは「動くこと自体が、はしたない」といった「最初から相手にもしてもらえない差別感」に対する鬱憤は、過去と比べれば社会全体としては少なくなっているでしょう。

しかし隣国の中には「笑ったら負けになる」といった文化的側面が適用される場面もあります。このような見栄・意地に基づいた文化は、無根拠断定系で応用され、ある意味頑なで変化が起こりにくい状態です。

謝罪

「謝罪と賠償」という文化が見栄・意地を強固にする

冒頭の「謝らない人」を考えるうえで、見栄・意地という考え方の分岐点は欠かせなであろうと述べました。そしてこのような「謝らない人」の心理は、例えば自己愛性人格障害を始めとしたナルシズム全般につながっています。

さて「謝らない人」の理由は、「謝ったら許される」という背景が優先的に存在しないからではないかと思います。「謝ったままでは許されない」「謝ったら、相手が ”もう、よい”と言うまで償え」など、賠償や従属が謝罪後に控えているという価値観が存在しているのだと思います。

謝罪を受ける側は、謝罪後に「償い」や「今後私の言うことを訊け」とは求めていないのにもかかわらず、一向に頭を下げない人をみて、見栄や意地が大きいと受け取る側が判断しているということになるのでしょう。

見栄・意地は家族関係からは生じる。

このように考えると、見栄・意地とはその後の対人関係の予想に対するミスマッチにより生じていると言えなくもありません。「謝ったら償わなければならない、そのあとは永遠と従わなければならない」という考えは、人を強迫的な方向に動かすでしょう。これが、縛られていない人から見ると頑固に映ることになります。

しかしこのような不釈然のもとは、日本であれ他国であれ、家族関係からもたらされる可能性が最も大きいでしょう。家族はそれぞれ立ち位置が決まっていて動かしにくく、また急激で大きな変化は一貫性がないと判断されてマイナス要因としてお互いに捉えられがちであり、また何より家族は多かれ少なかれ閉鎖的です。よって柔軟性を磨くより、むしろ固定観念を研ぎすます方向へ誘います。

従って見栄・意地が大きくならざるを得ない背景を持たざるを得なかったことで苦しむ場合は、「そうに決まっている」から「そうとは限らない」という考え方が優位になるように、いわばアップデートしていくことになります。

我々が治療と述べているのも、このようにこれまでに染み入った考え方を、今後の社会に自動適用しないようにするための手当てとして存在しています。

 

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沼田真一
川崎沼田クリニック 院長
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